読谷村 史跡巡り
歴史研修や文化財に触れよう!!ということで
継続事業となりつつある史跡巡りを開催しました
この事業は、平成16年度九州ブロック建築士研究集会
パッションinおきなわ大会の分科会を機に、
当時の女性委員長の本庄さんを中心とした女性委員会で
勝連城跡の見学会を行ったのが始まりです。
今は、青年女性がひとつの委員会となっていますが
なるべく女性が『参加したい!!』と思って頂けるような
事業をひとつでも多く開催しようと思っています♪♪
前置きが長くてすみません
今回は、読谷村教育委員会 文化振興課の小原裕也さんにより
史跡についての説明と、地域のお話しをして頂きました。
座喜味城址
座喜味城跡は座喜味集落の後ろの丘の上にそびえており
城壁に立つと北方に伊江島や本部半島が望め
さらには遠く沖縄本島の中部の西海岸から遠く那覇辺りまで望見できます
座喜味城は、こうした立地条件を得て、1420年(尚思紹王代15)頃
護佐丸が山田城の石を運ばせて造営したと言われているそうです
一の郭には建物跡として土台が残っています
伊江島が見えるな~ と遠くを見つめる三人
石垣の基礎は土層を掘り込む方法で、どっしりと築かれています
4種類の積み方をされた石垣の面積は城郭面積の半分を占めているそうです
喜名番所跡
「喜名番所」は、その昔、琉球王朝時代の公道であった宿道として
首里城と国頭を結ぶ接点に位置し、交通の要所である番所(駅)として利用され
人々の往来、文化の交流が盛んな宿場として賑わった場所であり
いわば道の駅としての機能を有していたそうです
1853年にはこの地に訪れたペリー提督一行の画家ハイネが番所の絵を描き残しており
その版画を元にリュウキュウマツが植えられたそうです
今は総合的な観光情報を提供する施設となっているようですね
赤瓦と同じ土ですが、焼き方によって黒くもなるようで
黒い瓦がとても印象的でした
喜名古窯跡
この窯は2003年の発掘調査で見つかったのですが、
近隣に民家が集中している中での保存は
とても大変だったろうな~と感じました
南西に焚口、北東方向に伸びる形をしていて
内部には陶片が密に詰められており
すでに廃棄された状態で埋められたようです
古い文献には喜名焼きに関する記憶が無いそうで
首里王府によって各地の窯場が那覇の壷屋に統合された
1682年頃まで操業されていたのでは?と考えられているようです
掩体壕
読谷山飛行場は國場組により敷設され
当時を知る國場幸吉氏のお話の中で
コンクリート格納庫についても語られたようです
掩体壕は分厚いコンクリート造で、入口はカマボコの切り口みたいに
口を開いていますが、奥の方に徐々にしぼりこまれた構造となっています
構築工事に参加した人の話によると、当時は仮枠などはなく
空きドラム缶を積み、土をかぶせて形を整え、その土に紙を敷いて
コンクリートを流し、中の土をかきだすという施工方法で
鉄筋などは一切使用されずに構築されたようです
かなり風化が激しく、今後の保存方法や活用方法など
良い知恵を貸してほしい!!とうったえていました
来年は首里にて『建築士の集い』が行われます
少しでも地元の事を学び、経験したことを
九州の方々へ発信することが出来るといいですね!!
参加された皆様、ありがとうございました
(社)沖縄県建築士会 青年女性委員長 伊東 亮
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